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先祖の足跡 柴田 敬恭の履歴メモ
上の画像は明治4年の7月〜8月と推察。
箱書きと向日葵の花の映り込みと着物にて推理。
明治25年以前〜明治9年頃(新潟県の官吏時代)


 

上がり藤に立ち梶の葉
はじめに
(まだ未公表です)
第一部:柴田という苗字と姓
第二部:全国の柴田家家紋使用一覧表
第三部:全国の柴田姓分布
第四部:柴田一族(同姓の考察資料)
第五部:姓と名前の起こり
第六部:リンク

 


< 我が柴田家の調べ事 >
       ●関連記事●

  1. 柴田ハマの履歴

  2. ハマの弟、柴田義之助の履歴

  3. 日本帝国海軍期の乗艦した艦船・1

  4. 日本帝国海軍期の乗艦した艦船・2

  5. 柴田敬恭の道程3頁《未発表》

  6. 髭GのHP

  7. 太郎代浜観音の事

  8. 先祖の住んだ地
< 正徳2年からの戒名 >
   柴田家先祖累代 1998年・8月

1712 密外宗付禪定門
            正徳2壬辰5月19日
1721 心翁祖安禪定門
            亨保6辛丑6月9日
1753 自叟叟禪利信士
            宝暦3癸酉11月6日
1776 幼 教 童 子
            安永5丙申3月27日
1781 法徳院碩翁道機居士
            天明元辛丑7月6日
1784 罷山自休信士
            天明4甲辰4月5日
1784 妙壽院智心正學大姉
            天明4甲辰4月27日
1792 玉堂妙梁善女
            寛政4辛子8月17日
    伯 山 院
              年号不詳
1793 潭光禪童士
            寛政9丁己10月28日
1800 清山智浄信士
            寛政12庚申10月12日
1801 清光院江月惇流居士
            享和元辛酉6月20日
1807 景光院月渓明心大姉
            文化4丁卯7月29日
1808 見性院直指軍伝傅居士
            文化5戌辰8月19日
1813 高山宗岳禪定門
            文化10癸酉9月9日
1814 一應禪無信士
            文化11甲戌5月21日
1815 秋清久心信士 
            文化12乙亥8月13日
1822 實相院智船彗燈居士
            文政5壬午1月27日
1825 幼 露 孩 子
            文政8乙酉11月11日
1828 智泉院聖安妙諦大姉
            文政11戌子9月3日
1828 蓮 智 童 子
            文政11戌子12月11日
1831 丹心院實相道空居士    
敬恭祖父
            天保2辛卯2月9日
       東京小石川小日向台禅宗、 日輪寺
1832 香岸智水信女
            天保3壬辰2月9日
1833 寒 妙 童 女
            天保4癸巳12月20日
1850 法雲院一山良無居士
敬恭父柴田啓一孫兵衛 嘉永3庚戌4月2日
      東京小石川小日向台禅宗、 日輪寺
1852 法心院實參妙貞大姉
  敬恭祖母柴田きわ  嘉永5壬子2月11日 
1871 浄観院眺月嵩蓮妙悟清大姉  
敬恭 母
            明治4辛未4月20日

 栃木県真岡 小田家墓地と磐田、中泉寺に埋葬

1892 謙山院良恭居士       
敬恭本人
             明治25壬辰5月6日
     東京上野谷中 田口家墓地甲2号、7側

1895 静苑妙琴大姉
            明治28乙未6月6日
              
敬恭の妻柴田琴子
東京上野谷中 田口家墓地甲2号、7側


 ※いずれも想像をしないようにして、事実の記
録を中心に書き留めた。まとめて1枚にしたのの
だが、各資料はたくさんあるものだ。


  髭Gの調べ事

< 安房勝山藩(加知山藩)千葉県 >
敬恭の父親と共に仕える  酒井舎人江戸詰め

< 下野真岡代官所 栃木県 >
三宅鍵作に仕えると当事の記録が真岡市(栃木)
に在ることが判明。
< 遠江陣屋・代官所 磐田静岡県 >

< 伊達郡桑折 福島県 >

<中野県(長野県) >
明治3年10月18日、 大蔵省租税小令史に任命

<恵那県(岐阜県) >

明治4年5月25日大蔵省より伊那県へ出向し、

永山県令に仕えて以来行動を共にして、
明治9年〜明治20年に非職。

新潟県県史・別編3(人物編)776頁 
明治10年7月1日
 二等属、六兼地六課地租改正 県令より三番目
 
に記述あり。(副知事クラスと伝え聞く)


同6月18日から明治6年8月28日まで約2年間、
永山盛輝参事と共に飯島伊那県庁で権大属として
任じている。


< 筑摩県(長野県) >
永山盛輝参事(知事)と共に
< 新潟県 >
永山盛輝参事(知事)と共に、

真岡市・小田家墓地内にある柴田家の墓碑
真岡・小田家は元柴田家の所有地、15,000坪。 女優、小田茜の実家でもある小田家。
座っているのは敬恭の子、多津子で初代小田家に嫁ぎ、家ごと管理を任せて柴田家の土地を娘にゆずったらしい。

<その1>
<その2>
<その3>
<その4>

 工事中というか、この頁は作成段階でありますが、 ある程度に短くまとめて一頁にして仮出しにしました。

すべては
◆◆◆敬恭が残した墨書からが始まりだった◆◆◆
■調べもきっかけも上の回顧文から探り寄せた

敬恭を起点とした縁者・親類を調べ、平成生まれまで系図にしてみたりもした。

 美濃紙四枚に張り合わされた墨書。書かれた文字の隙間から、無骨で誠実に人生を全うした柴田敬恭の姿が浮かんできた。与は房州加知山の藩士(現千葉県房総半島。安房・勝山藩、明治維新後[加知山藩]と名称が変わる。現在の町名は安房郡鋸南町である。)柴田啓一(幼名・孫兵衛)の長男として、文政七年(1824年)の正月に生まれた。
 十二歳の年に初めて抜擢されて勝山藩で藩主の側役(そばやく)となり、その後は徳川幕府に仕えて文久年間は下野(栃木)の真岡代官所で役職に就いていたが、明治維新の前は伊達郡桑折に在して長男がそこで生まれている。
明治維新後は大蔵省に籍を置き、県令(県知事=権令=参事)属吏として、三河(名古屋)、遠江(とうとうみ「静岡県掛川・磐田周辺」)、武蔵(東京・埼玉・神奈川方面の旧名)、陸羽(群馬・山形方面)丹後(福井県西部)等、幕府地天領に赴いた。幕末から維新の激動の時期である。 
 代官所勤めは関八州(幕府が支配した領地、武蔵・相模・上野・下野(しもつけ)・常陸・上総・下総・安房におよぶ、関東筋の御料)。江戸時代の一般的な天領の支配機構は、勘定奉行支配のもと地方行政官たる代官が指揮をして、実務は属僚である手付・手代が行っていた。
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「安房・勝山藩(加知山)」及び竜島酒井家・概略 2

 勝山藩は、安房国勝山を中心に領地を持った譜代小藩である。三河以来譜代の家柄である内藤清政は、元和三年(1617)に兄清次の遺領26,000石を相続し、どう八年に4000石を加増されて、常陸・相模国の領地を安房国の内に移されて三万石を領し、勝山藩が成立する。しかし、わずか一年で清政が卒したので、しばらくは廃県となった。寛永三年(1626)清政の弟正勝は、兄の遺領の内二万石を分与され、再び立藩したが、同六年に没し、嫡子重頼がまだ二歳だったので1500石を収公されて廃県となった。
 ついで寛文八年(1668)酒井忠国は、叔父忠直から安房・越前国の内で一万石を分与され、勝山に陣屋を設けたので、再び勝山藩が復活した。忠国は天和二年(1682)に安房・上野国の内で5000石を加増され、全て15,000石を領した。忠国の子忠胤は同三年に遺領を相続したが、その時3000石を弟忠成に分与したので、12,000石となった。 安房竜島酒井家は、忠成から八代続いた酒井家の分家である。天保四年(1833)に
七代目舎人は江戸詰御寄合衆旗本3000石を拝領していた。従って当時の柴田孫兵衛(敬恭の父)は江戸詰であった。
酒井舎人とは、房州安房勝山藩(後加知山藩と改称)藩主酒井家三代目忠胤(ただたね)の弟忠成が分家して竜島酒井家を興す。
天和三年三月十一日(1865)初代忠成-二代忠郷・三代忠棟・四代忠享・五代忠頼・六代忠徹・七代舎人・八代新三郎で明治維新となる。
 
七代目酒井舎人の江戸藩邸が、江戸湯島天神近くの妻恋下にあり、敬恭はそこで生まれている。父は江戸城御成道勝山藩士、柴田孫兵衛。母は戒名しかわからぬが、浄観院眺月蒿蓮妙悟清大姉、(現埋葬地・栃木県真岡市若旅、小田家墓地後詳細)の子として生まれている。


 勝山藩(加知山)は幕末になると藩財政は窮乏し、異国船渡来などの外圧もあって、安政四年(1857)藩政改革を実行するが、成功をみずに明治を迎えた。明治二年(1857)藩名を加知山藩と改称し、版籍奉還により藩主忠美(ただよし)は加知山藩知事となり、旧陣屋を藩庁とした。明治四年七月、廃藩置県により加知山県となり、ついで木更津県に編入された。したがって、菱川師宣記念館の○○様よりお送りいただいた、鋸南町市史の慶応四年の分限帳には当然敬恭は記載されていない。鋸南町には柴田姓が三軒あったが、すべて電話で確認したところ関係がなかった。だが史実に柴田一名(墓、柴田太郎三郎・慶応三年五月・妙典寺)名が有り。

勝山は房総半島の安房國勝山で現在は鋸南町である。



「敬恭誕生」
 
敬恭は文政7年1月11日(1824)に、江戸妻恋下・酒井舎人
                     藩邸で生まれた。



 嘉永三年四月二日に父である御成道安房勝山藩士であった、柴田啓一孫兵衛を亡くしている。

三日後の同四年四月五日、妹の柴田なおが田口友蔵の子・篤祐と結婚、
同嘉永五年三月十一日(1852)敬恭28歳のときである。敬恭の祖母、柴田きわが遠江(磐田)中泉寺、中泉寺陣屋敬恭宅で亡くなっている。
その十年後の文久二年旧二月九日には、下野(今の栃木県真岡市、旧芳賀郡中村字若旅)代官所に在陣し、そこで鬼怒川治水、新田開発など当時の三宅代官の元で職務をとる。
栃木県の
真岡市史編纂の方に寄ると、資料に柴田敬恭の名前があるとのことで
そのあたりも調べる予定であるが、そのままになってしまっている。
同所にはもう一名の柴田性の記述があるようだが、同様にまだ調べてはない。
予想も付かない情報を得て、まだ足跡が残されていることに驚いた。

詳しくは、また後に記すが、敬恭もそのような職務のため、津々浦々、本陣・陣屋・代官所を巡っていた。(下野)栃木県の真岡もその一つである。
 耳順(じじゅん)とは、60才の事である。敬恭の三十三歳は安政一年(1854)年のことである。明治維新は慶応四年、同時に明治元年(1868)であり、敬恭44歳の時。

  

●文政五年一月二十七日(1822) 敬恭高祖父卒
                
實相院智船彗燈居士卒

◎文政七年一月十一日(1824) 
柴田敬恭(源)庫太郎 幼名(こ・くらた
                ろう)
                江戸妻恋下の酒井舎人藩邸で柴田
                孫兵衛の子として生まれる。


●文政八年十一月十一日(1825) 幼露孩兒 卒
●文政十一年九月三日 (1828)
敬恭高祖母 智泉院聖安妙大姉卒
○文政十二年八月十一日      田口篤祐 生 

●天保元年 (1830)      敬恭妹 次女の柴田なお(直)生
●天保二年二月九日(1831)  
敬恭祖父卒 丹心院實相道空居士
                
東京・小石川小日向日輪寺
●天保三年二月九日(1832)   香岸智水信女 卒
◎天保三年日不詳         琴子(布施)敬恭の妻 生
●天保四年十二月二十日     寒妙童女 卒
★天保七年(1836)     
  敬恭 勝山(加知山)藩で側役
                この年、12歳

 この時代、後世のように移動がなかったためか、物故者もはっきりとしている。子どもの物故者は天保の大飢饉(1833〜39)等の関係かは不明。徳川家斎の時代である。天保八年(1834) 天保の大火・諸国飢饉敬恭はこの時代に武士としての素養を身に付けていたものと想像できる。

○天保五年五月         田口家祖江戸幕府士賄調役中村利十郎の父久次郎卒
○同年同月           江戸幕府藩士、西丸御膳所組頭天保五年五月父跡西
                丸表御台所人仰付 
                嘉永六年九月、表台所人中村利十郎田口友蔵父

●嘉永三年四月二日(1850) 
敬恭父
                豊島郡江戸城御成道加知山 藩家臣
                柴田啓一孫兵衛 
                法徳院一山良無居士 卒
                敬恭26歳の時
★嘉永四年四月五日(1851)   敬恭妹柴田なお(21歳)田口 篤
                祐と結婚する
●嘉永五年二月十一日(1852) 敬恭祖母卒 俗名 きわ
                法心院實参妙貞大姉
                遠江中泉寺・中泉陣屋、
                敬恭宅で亡くなる。


 この時代には藩政の改革などのためか敬恭は加知山藩から暇をもらい、藩より外に出て28歳位に於いて、幕府代官所勤務に移行したことが伺える。
代官は弘化四年の武鑑に見られる名代官の川崎平右衛門(布衣千石)(江戸詰)後の文久年間の三宅兼作と思われる。まだまだ調べねばならぬが、のち記載の小田家過去帳に記述があるからである。川崎氏とは川崎平右衛門定孝以外いないからである。
……と思われていたが、実は三宅けん作という代官であることが解った。
当時の文献には、柴田姓が2名含まれていたが、そのうちの1人が柴田敬恭で
あることが判明した。名前の書かれた文献が存在していたのであった。


★嘉永六年十月六日       田口高朗生まれる(後、敬恭の長男・柴田義
               之助の妻 となる考の母親、松本九女と結婚す
               る相手である)

◎安政四年(1854)    
幕府に仕えていた年代である。

○安政五年十二月月日不詳(1858)故幕府士 中村利十郎三男田口友蔵
               廃家傾開再興 明治二十九年九月十二日
               静岡市西草深町中村家より別立
                      
(明治期の戸籍簿で確認)


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 江戸幕府の静岡藩の家臣の資料は、幕臣研究者である前田様にお世話になり
ました

資料はすぐさまFAXで送ってもらう事が出来て、感謝をしました。

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●●顛末記●●
 先に述べた川崎代官だと、年代的に一致しないと思っていたが、なんと真岡市の教育委員会に電話して確かめると、三宅鎌作という代官の元で手代をしていたという敬恭の足跡の記述が市史の資料に残されていた新ニュースのことを知った。代官所にはもう一人同姓がいたそうであるが、まだ確認をとっていない。いずれは必ず確認を取ることとした。


   「敬恭真岡代官所在陣」役職:手代 

◎文久二年旧二月九日在 (1858)
◎文久三年十二月二十八日(1859)
敬恭長女柴田ハマ真岡にて生まれる。

 柴田敬恭、真岡代官所。下野芳賀郡中村大字若旅五町歩開墾(15,000坪)(若宮原)、暴れ川の鬼怒川治水、及び農地開墾にたずさわる。鬼怒川堤防に桜並木を植えたと伝わるが、現地に面影無し。工事の始めか、終わりかまだ資料無し。
真岡の地は
幕府天領。代官所・手代、手付として指揮をとったに違いない。ここに、数年は在住し真岡若旅に居をかまえた。鬼怒川の真岡対岸に在し幕府より五町歩拝領と伝う。

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 天領とは………………

 天領は、どのような地域に設定されたか天領の分布は徳川一門・譜代大名領、それに旗本領とならんで幕府にとって政治・軍事上においてもっとも重要な地域に分布し設定された。同時に、幕府の経済的基礎が基本的にはこの天領から収納する年貢にあったことからも、物質的基盤とした。
 幕府の時期によって異なるが、まず豊穣な農業地帯や商品作物生産地帯がある。その他に、築城・架橋、直轄都市建設のための資材の供給源である山林地帯、河川・海上・陸上の交通・運輸の結節点にある直轄都市や港湾および重要な河川流域、貨幣鋳造や鉱山地帯、軍馬の供給地である牧場や鷹場も対象であった。
 この中で蔵入地の地域開発を、直接行ったのは地方巧者の代官頭とその配下の代官・手代たちの技術集団であった。河川堤防の修築、開削、瀬替工事の実施など新田開発が促進されて耕地が次第に拡大されていった。
代官頭は各自が陣屋を拠点にこのような周辺地域の開発を行うと共に、他方では代官頭が諸文書を出し、広域¥支配をおこなっていた。天保九年の郡代・代官支配地は三百二十八万四千四百七十八石。遠国奉行は十四万四千百九十六石、大名領地は七十六万三千三百六十六石であった。郡代・代官の数は確定されてはいないが、正徳二年(1712)には六十三人、享歩五年には四十二人、天保六年(1835)は四十三人、慶応三年は41人と
なっていた。天保十年の郡代・代官数は四十二名であるが、属僚の手付・手代は江戸詰、代官所詰、出張陣屋詰に分かれて常駐して、その数は各代官所で平均二十名前後ときわめて少ない。 そのような人数で広大な天領の領域を管轄した。
天領は明治新政府の鎮撫総監軍によって戊辰戦争のさなかや直後に於いて郡代・代官屋敷とともに接収されたが、実質的には明治元年閏四月に府藩県三治制が定まると、府県の設置によって、そのまま直轄支配が継続され、引き続き新政府の財政基盤として、明治四年の廃藩置県まで存続した。
手付・手代の職務は、司法面を扱う公事方と徴税や民政面を扱う地方に職務分掌されていた。手付・手代の職務に従事するだけでなく、関東内の治安警察組織である関東取締出役や土地論争を行う論所地改出役に出向する者もいた。
 そのような背景の元、敬恭も生涯にわたり、明治維新後もも職務に租税関係が続く事になる。
 

    「幕府天領の地、真岡に在した証」

       栃木県真岡若旅開墾祝辞

                昭和九年三月九日(1934)

当時の真岡市長の祝辞

昭和九年三月九日ノ吉辰ノトシ茲ニ小田家戌歳ノ開墾七十二周年記念祭ノ式典挙行ニ当タリ不肖此ノ盛儀ニ列シ一言祝辞ヲ述フルヲ得ルハ誠ニ慶賀ノ至リニ堪ヘサルナリ押モ小田家ノ開墾記念祭タルヤ今日ヨリ将ニ
73年前、文久二年ノ戌歳旧二月九日小田家ノ祖先柴田庫太郎敬恭氏カ始メテ此ノ地ニ参リ世人ノ未タ顧ミサリシ荒蕪地ヲ開キテ耕作シ若宮原一帯ノ地ハ瞬ク間ニ美田ト化シ為ニ年々ノ生産寶ニ著シク収益、亦甚大ナリ其後前代柴田義之助シ継承シ益々福利民益増進ノ道ヲ計り基礎愈々確実トナリ偲明治三十年三月現代小田竹三郎氏柴田家ノ後裔トナリ今日ニ及ヒシモ小田氏ハ宜シク祖先ノ遺風ヲ遵奉シ農本立国ノ美風ニ基キ益々耕地労作ニ従事シ以テ生産ノ増殖ヲ計リ一意専心其ノ勤労作業ハ寛ニ見ルモノアリシノ為小田家隆盛愈々郵其ノ慶ヲ加ヘ成果愈々顕著ナリ是偏ニ小田家一家ノ栄誉ミニ止ラス一族一門ノ名誉ナリ茲ニ記念祭挙行ニ当リ一言祝辞ヲ述ル
ト共ニ小田家将来ノ繁栄ノ祝福スルモノナリ
                             中村大字若旅
昭和9年3月9日    松 本 玄 司
              真岡市市長(1948)昭和23年10月

●松本 宋内
1847年(弘化四〜)1917年 芳賀郡若旅村(真岡市)生まれ
地租改正の地主総代、県会議員。
若旅村の豪農の家に生まれ、地租改正の際、大二区地主総代として活躍。特に県の地位等級比準鑑定委員として小区地主総代の同僚坂入源左衛門のよき相談相手として、農民の利益を守って行動した。改正終了後、1880年(明治13年)の県会議員選挙で当選。第三回の任期が終わり退官するが86年3月再び当選、以後97年10月まで連続県議を続ける。改進党に所属。1913年(大正2年)長く地方自治の発展に尽くした功で芳賀郡中村の自治功労者として表彰された。

     参考文献「真岡市史題巻」、栃木県史・資料編近現代四 ↑坂入源左衛門
                             (笛木 隆)

真岡の事は、後ほどよく調べる事にしている。

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 栃木県真岡・小田家過去帳 原文

      柴田家関係 柴田庫太郎源敬恭

      妻 琴子・小田多津子ノ母ナリ

柴田勝家ノ末流ニシテ房州加知山藩主 酒井大和守ノ江戸屋敷ニ生マレ(文政七甲歳正月十一日)大和守嫡子酒井忠一相手役トナル(十二歳ノ時)其後暇ヲ貰イ旧幕代官川崎氏ノ江戸屋敷勤メヲナス是ガ代官勤務ノ始メニテ此地ニ赴任ス 
真岡在陣中五町歩開墾セシモノナリ


布施家

 敬恭の妻琴子の実家
江戸城御産所組頭(濱屋敷)大武鑑上巻P418寛永七年に掲載有り

布施家初代伊兵衛は江州布施出身布施山城守の後にて東京神田区紺屋町二番地山城屋号布施伊兵衛として土着し代々伊兵衛と名く。
明治維新当時御室御所として各皇族方の御宿所に当られたる家柄なり、後に不正なる支配人出て府下の所有地は勿論、宅地貸家等全部他人の有ととなる。土着六代目の長女いそ子家を継ぎ一人は
京橋区本港町伊丹屋川喜団興右衛門の妻となる
一人は深川区冬木町 冬木喜平治の妻となる(東京の冬木弁天はこの家の庭に奉られたものである)
一人は神田区紺屋町 上田家の養女となる
七代目伊兵衛の長女 琴子家を継ぎ後柴田家に縁付く

野州小田家

小田齋兵衛 妻、多津子(敬恭・琴子の子)
伊勢国飯南郡射和小田の分家なり本苗は織田氏なりしが中古今の『小田』を用と初代齋兵衛は東京浅井両替店に勤め支配人となり柴田氏より妻、多津子を娶り小田家を立つ 其の縁に依り柴田家野州の所有地ヘ管理者として来り土着す

       ※小田家墓地,小田家墓碑のに柴田の墓碑があり



       調べの逸話

 平成12年8月13日、夜になって急に真岡行きが決定。
翌14日、三男宣昭・四男保元は、茨城県の宣昭の帰省の帰途に便乗して朝十時近くに車で沼津を出発。
 一路栃木へ、沼津で買った土産の干物が腐らぬよう、東名に乗る。ガラガラの東名上り、厚木で昼食と思いきや、食べ物は売り切れ、男爵芋で我慢。都内もスイスイ。常磐道もマイウエイ。それがいけない、二時半近く過ぎにまごまご真岡に到着。逆方向から進入したため、行きつ・戻りつ、一時間以上小田さん方を探す。やっとのおもいで到着し、長兄から預かった花代を供え、近くの墓地へお線香。
 とにかく幅広い河川の鬼怒川。小田家もお寺並、カメラのフイルム残六枚とは知らずアウト。夕闇迫り、茨城へ。
一泊して、15日に水戸駅まで車で送ってもらい、茨城県の水戸市より、スーパー日立で東京へ。一人沼津へ戻る。
真岡の小田家のお孫さんは、女優の小田 茜さんだったと後で知る。

その後、時間は経つばかりで調べはストップしたままである。

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      戊 辰 戦 争

幕末、幕府内部は、将軍の継嗣問題や開国問題で揺れていた。中でも、開国問題は、
孝明天皇が強硬に反対していたにもかかわらず、天皇の勅許を得ぬままに通商条約に調印してしまったため、朝廷との衝突にまで発展してしまった。その後幕府は、朝廷との融和をはかり、孝明天皇の妹の和宮を十四代将軍家茂の夫人として江戸に迎えたりしたが、この前後から、各藩は、朝廷と幕府を結びつけ政局の安定をはかる“公武合体派”、反幕をスローガンとする“尊王攘夷派(後に尊攘派と呼ばれる)”、そして、幕府を支持する“佐幕派”に分れて、勢力抗争を繰り広げるようになる。
 このような情勢の中で、幕府は弱体化していった。慶応2年(1866)12月、徳川慶喜が十五代目の将軍に就任し幕政の再建を試みたが、それも時すでに遅く困難を極めた。しかも慶喜は、長州藩(以前から幕府と対立していた)の処分問題で薩摩藩と衝突し、すでに反幕の態度をあらわにしていた両藩をより強力に結束させてしまったのである。これに対し土佐藩は、公武合体の立場で幕府に大政奉還を勧めていたが、結局、慶喜も幕府再建を諦め、慶応3年(1867)10月、大政奉還を上申したのであった。
 自ら大政奉還を行った慶喜ではあるが、その後のクーデターで成立した新政府は慶喜を政治の舞台から完全に排除する態度を見せた。そのため旧幕府方は反発の態度を強め、慶応4年(1868)1月、ついに旧幕府方と新政府方の勢力との間で戦争が勃発した。この抗争は4月の江戸城開城をみ、戦場を東北に移して翌年の5月まで続いた。戦争開始の慶応4年の干支が戊辰(つちのえたつ)であるため、一連の戦争は総称して“戊辰戦争”と呼ばれている。 

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 「旧幕府天領の地、
   信濃飯島陣屋〜伊那県庁」
2

 江戸幕府天領(御領)の陣屋は、江戸後期には全国に約60ケ所置かれたが、軍事的機能を持たないために城と比べ施設が小規模で、その為建物などで現在まで残っている物は少ない。 飯島町は長野県の南部、伊那谷のほぼ中央に位置し、西に中央アルプス南駒ヶ岳、東に南アルプスも山並みを望むことができる。伊那谷の中央部を天竜川が南流し、下流域の遠江・駿河・三河とは古くから政治・経済・文化の面で盛んな交流がされてきた。
飯島陣屋は延宝五年(1677年)、片桐陣屋(現下伊那郡松川町)から伊那街道の伝馬宿であった飯島町に移されて以来、陣屋や駿府陣屋の出張陣屋として慶応三年(1867)までに実に百九十年間にわたり南信濃を中心とした天領地を支配してきた。この間、41人の代官が在職し、支配地の石高は多い時は五万石以上、少ない時は一万数千石、平均すると三〜四万石であった。陣屋は飯島宿のやや奥まった位置にあり、伊那街道とは陣屋小路と呼ばれる小路で結ばれていた。陣屋は度重なる火災に遭い、そのつど再建され、安政三年(1856)には飯島宿の大火で全焼したが、翌年建てられた。この建物は明治元年(1868)に伊那県庁として引き継がれ、明治四年、伊那県が廃県とかってからは飯島学校の校舎として使用された。明治27年には飯島学校は新敷地へ移り、陣屋に関係した建物は移されたり壊されたりした。
 平成二年、飯島町は陣屋。復元整備を行い本陣の復元を開始した。

 柴田敬恭は
明治4年5月25日大蔵省より伊那県へ出向し、同6月18日から明治6年8月28日まで約2年間、永山盛輝参事と共に飯島伊那県庁で権大属として任じている。

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 永山盛輝県令と中野県〜伊那県〜
   筑摩県、新潟へ
3

 「伊那県」

 慶応四年(1862)年二月、信州の旧幕府直轄領(飯島・御影・中之条・中野各代官所)、松本藩・松代藩の預所、松本領などが、尾張藩(名古屋)の管轄となった。同四月に府藩県治制が定められ、信州は藩県二治制となっている。尾張藩管轄の旧幕府領関係は、八月に設置された伊那県となり、伊那県庁が伊那郡飯島村〔飯島町〕におかれた。
 伊那県は愛知の一部、足助局と信州各地の南北に点々とし、出張所が御影・中之条・中野などにあって、その支配は難しく、しかも領域は信州全体の10分の1にすぎなかった。

 「中野県」

明治三年九月  伊那県のうち東北信地方を孤立させて中野県とし、県庁を高
        井郡中野村(現中野市)に置く。
        明治三年九月に成立、後三ヶ月にして、中野騒動が発生し民
衆の力を示した。県庁を焼かれた中野県はわずか10ヶ月にし
        て終わり、同四年六月、長野県に県庁が移され長野県と改称
        される。

同四年七月十四日、
廃藩置県が行われた。

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柴田敬恭 大蔵省当時明治期の履歴」


1870 明治三年十月十八日、 大蔵省租税小令史に任命された敬恭は、
                 
明治四年正月に信濃国暴動事件後、諸帳
                 簿調方として中野県 へ出張申付。

 明治四年五月二十五日、  敬恭大蔵省より伊那県へ出向申付。
  同四年六月十八日    伊那県権大属申付。
 同年六月十八日       租税掛申付。


              
●廃藩置県●

「筑摩県」(元松本市)

明治四年十一月二十日、   伊那県廃せられ筑摩県を置く。満年賜金
                 不受。
  同年十二月二十二日   筑摩県十一等出任申付。
明治六年一月二十九日、   筑摩県・任大属
明治六年六月十九日     筑摩県庁焼失。即日開智学校内に県庁を
                 移す

明治六年七月十五日    敬恭の長女の柴田ハマ、筑摩県
(長野県松本市)
              
開智学校に女学校が開設され本町生安寺
                 に仮校舎を
女学校とする。
                 (明治五年設置〜明治十年統合)に後の
                 鳩山(多賀)春子と共に同じクラスで学
                 ぶ。後になっても交遊が続いた

                 (二人が並んだ写真があり)

                 [我が自叙伝]鳩山春子著。
多賀春子の
                 家は、旧松本藩の士族であった。(略)


明治六年八月        官等御改正に付左の通り拝命
明治六年八月二十八日    筑摩県・任中属
  同年同日        上等月給下賜

  同十月二日       筑摩県師範講習所を開智学校に開設
「筑摩県」

 筑摩県(永山盛輝前、伊那県大参事、旧鹿児島藩士)明治政府の基盤となった地租改正は、筑摩県が極めて先進性を示し、山口県についで明治五年十一月に着手し、翌明治六年七月には、全国に先駆けて農民の取り分の多い地価算定式を決めた。柴田敬恭は、知事・永山盛輝の地租改正の直属吏として仕える。



明治八年十月十二日     本年四月二十四日飛騨国大野郡高山町非
                 常の火災にて失火焼亡する戸数千三十三
                 戸に及び人民夫れ食うに苦しむを憐れみ
                 金壱拾円為救助差し出す段奇特の義に付
                 為其の賞木盃一個下賜候事。

明治九年一月七日      敬恭 任筑摩県権大属

「新潟県へ赴く」

同明治九年一月七日      新潟県出向申付候
明治九年二月十二日     新潟県権大属
  同年同日        第三課中地租改正掛申付候
明治九年四月七日      新管内地租改正事務為取調出張申付候事


明治九年六月十九日、松本の筑摩県庁が焼失し、それをきっかけに長野県に統合される。
この間、永山盛輝大参事に呼応するように柴田敬恭は、収税・地租改正と官吏の道を新潟県まで、共に歩んでいる。


明治九年九月二十六日    第十二・十三・十四区の内 改租の成否
                 為査閲、小千谷町へ出張申付候事
明治十年一月二十二日    府県参事(県知事)以下廃せられ候に付
                 解官

明治十年一月二十七日    新潟県二等属
      同年同日    第六課長兼地租改正掛申付 候事
明治十年一月二十七日       越後西半国改租整頓に付為 伺上京申付
                 候事
明治十年十月        旧筑摩県奉職中、学資及び道路修繕費等
                 へ金参拾八円六拾八銭六厘差出候段奇特
                 の義に付内務省へ及び上申
                 為其賞木盃一個下賜候事
 

明治期の柴田敬恭一家
調べの逸話
2001年9月、かねて事前に資料をFAXで頂いていた長野・松本市にある開智学校に次男、私、6男夫婦で出掛けた。梶の葉が神紋である諏訪大社に関連を求めて行ったのだが、朝早すぎ聞く人もおらず、散策後下諏訪大社へ廻り、一路松本へ。
松本城見学後、開智学校へ、アポなしのため関係者は土曜日で休み。重たい資料をぶらさげ見学。2階にあるガラスケース内古文書に柴田敬恭の名前発見。一同「あった、あった。」が記憶に残る

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筑摩県(現・長野県) 4

松本市立博物館付属機関重要文化財旧開智学校  管理事務所
お世話になって、資料を送って頂いた○○さまは、2006年
5月に再度開智学校を訪れたが、同年3月にご勇退されていた
〒390-0876 松本市開智二丁目四番十二号
* 明治5年の官員名簿が開智学校に有り
* 明治7年の官員名簿有り

筑摩県の教育と民権に対する土壌

 信州松本は、坂崎斌、松沢求策らの活躍によって民権運動も早くから盛んであつた土地だけに、演壇演説会があちらこちらでしきりにひらかれた。その会場のひとつの宝永寺の近くに、そのころ小学生の木下尚江(1869〜1937)の家があった。そこで演説会があるたびに、こども・婦人がおもしろがって手を打つ。弁士は大半小学校の若い教員だった。
 一・国会を開設して、人民がみな政治に参与せねばならぬ事。
 二・条約を改正して、外国人もみな日本の法律に従うようにせねばならぬこと。
 言論を武器とする民権運動は新聞と演説を両輪とした。
 演説の流行にたじたじとなった政府は1880年(明治13年)四月、集会条例を出して弾圧にかかった。そんな時代の前に、
明治六年柴田ハマは松本開智学校女子部で学んだ。前年五年(1872)は「学制」頒布で義務教育制度ができたばかり「学制」はおもにフランスの教育制度を範とした。制度はかわっても寺子屋の延長のところもあり当時の学級編成は、半年を一級とし、下等が八級から一級まで、上等が又八級から一級まで併せて16学級のものを一室に収容したものだったらしい。生徒のなかの上級生優秀者が、授業生という名目で指導の手助けをしたので、先生は一人で間に合ったらしい。授業生とはいまでいう代用教員のことである。小学校課程を修了した柴田ハマもその一人であった。


 
当時永山盛輝は教育に力を注ぎ教育県令といわれ学制発布後全国一の就学率であった。その時期の柴田ハマの動向


明治六年当時、ハマと同じクラスには多賀(鳩山)春子がいた。生安寺は6年生女子、男子は全久院と共学ではなかった。(明治5年設置〜明治10年統合)開智学校は明治九年に完成している。春子は明治6年末迄いたがその後、上京、明治10年に東京の竹橋の女子師範に入学。ハマは明治9年1月7日、敬恭が新潟に赴任したため、同時期に新潟に移る。

▼年月不明 但しハマ本人は、14歳の時と語っていた。
単独徒歩で、家を出て上京。碓氷峠にさしかかった時は涙が流れ、戻ろうかと思ったと。然し東京での勉学の意志強く、東京へ向かった。(同級生だったタガハルコ、後の鳩山春子)女史が上京し竹橋女学校〜女子師範への道を選んだことの影響、決意になったと。)
東京につき本郷菊坂の交番で尋ねる先生(女子師範の教師・藤田東湖〔元水戸藩〕の姪)の家を案内してもらう。
先生(名前? )身元を確かめた上、学習・家事手伝いで住込み許される。

▼年月不明     
神田ニコライ堂に通ううち、信仰心を持ち女子師範へ入学せず官費生となって、ニコライ堂ヘ入り、研修。後、成績優秀でロシアへの官費留学を奨められる。▼明治十年頃の話しである 実家の父へその経緯をつたえる。日ならずして、「父危篤」の電報を受け取り帰郷。電報は呼びもどすための口実。敬恭は危篤どころか形相を変え、刀を携え座敷の真ん中に座し、おまえが毛頭露国へ行くのは許さぬ。もし行くのならばおまえを切って、俺も腹を切る、と猛反対をした。

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自由民権運動

 柴田ハマ、女性史覆す弁士、新発田演説会で演説・「艱難は樂を得るの機」
ハマとは言うまでもなく、敬恭の長女で柴田義之助の姉である。

1880 明治13年3月6日 はま、新発田演説会で演説!!最初の女
性弁士。

「艱難は樂を得るの機」
新聞に記載され最古記事として証明された日本で最初の女性弁士、柴田ハマ

明治13年3月11日 新潟新聞に記事掲載以下記事「新発田演説会に女性も演説」         

○北蒲原郡新発田演説會は去る六日午後六時より進取社に於て開きました演説會者ハ 三堀兵五郎(新発田人に謀るの緒言)山口和朝(倒れぬ先の杖)早津安吉(天地奇 怪なし)吉田(柴田)はま(艱難ハ樂を得るの機)
 山形佐一郎(演説の功用)大村一(富の説)吉田義高(勉強は開化の母)和氣清太郎(國會論)にして傍聴人は凡そ三百人程あり演説者ハ皆堂々として壇上に登り雄弁を揮はれたりとの事
             
※1999年十月新潟女性史クラブ

        鈴木由美子様より(新聞カード検索コピー1989) 
※新潟女性史年表A判500頁の本ができた。自由民権運動と男女同権論/演壇に立つ女たちの項目の中に登場予定。新潟にとって誇らしい記述をすることができます。なぜなら今まで、女性史の通説では日本で初めて演説したのは京都の「岸田俊子」で、明治15年ころということだったからです。つまり日本初の女性弁士が「柴田はま」さんになるというわけです。


※偶然というべきか、驚くことに120年も前のハマのことを、別の人が捜していたのである。新潟の太郎代の金龍庵の住職さんにお送りしていた、私の資料を見て連絡が逆辿りに来た。なにか因縁というか引き合わせに仰天した。

これで解らなかったハマさんのことが、一気に加速してわかってきた。
ハマの養女である作田さんにもお世話になり、色々お聞きして、何回となくこちらの資料を新潟の鈴木由美子さんにFAXでお送りした。所在が解り記事ができて大喜びは三者共々であった。
その間は、私たちは何度も確認を取り合い、FAXなどで情報を提供しあった。
鈴木由美子様は、取材のために新潟から、東京まで足を運んだりして尽力を
おしまずにしてくれていた。


明治13年ころといえば自由民権の旋風が日本を覆っていた。
新潟新聞と尾崎行雄 (萼堂)

 福沢諭吉は、新聞界においても優れたリーダーであった。その門下生のひとりの尾崎行雄(1858〜1954)は、西南戦争後まもなく「公開演説法}を反訳するなど、眼はしのきく秀才だったが、そのころろのある日、福沢先生をたずねて意見をたたいた。
「その時先生は毛抜きで鼻毛を抜きながら、へんな目つきをしてななめに私の顔尾を見ながら、『おミェーさんは、だれに読ませるつもりで著述なんかするのかい。』と問われた。私は其の態度や言葉使いにムッとしたが、怒気をおさえ、襟を正し、厳然として、『大方の識者に見せるため。』と答えた。スルト先生は、『馬鹿ものめ!猿に見せるつもりで書け。おれなどはいつも猿に見せるつもりで書いているが、世の中はそれで丁度いいのだ。』と叱咤しつつ人を引きつけるような笑い方をされた。
 私は叱られたのか、ほめられたのか、なんだかわからなかったが、とにかくその態度や言葉使いが気に入らなかったから、その後はなるべく先生を訪問しないようにした。しかし、これは私の誤りで、先生は実用的著述の極意を示されたのであった。」

           (尾崎行雄『萼堂自伝』)   1947

 1879年の冬のある日、福沢先生の呼び出しを受けて尾崎が飛んでいくと、新潟新聞の主筆にならぬかという耳よりな話だ。「当時新潟新聞は地方新聞の尢として大阪の大新聞と対抗するほどの勢力をもっていたから」尾崎は快諾して、弱冠二十一歳の主筆が生まれた。
「私が越後に行ったころの新聞は論説に重きをおいていたから、論説記者の勢力は、大層なもので、その主任は主筆と称し、編集全体を指揮した。私ももちろんそうであったが、しかし主筆だけで満足せず、はじめから新潟新聞総理と署名しさらに指揮権を営業方面にまで拡張し、株主代表者たる社長を更迭せしめたこともあった。」

           (尾崎行雄)『萼堂自伝』


 尾崎行雄の気負いはオーバーにせよ、当時の新聞主筆の権威たるや、推して知るべしである。当時の新聞は大新聞と小新聞と、毛色の違いでかっきり二分されていた。「大方の識者」と猿「庶民」向けの読み物新聞である。

 開港貿易による尊攘運動の激化を契機として成立した明治維新政府は封建的諸制度を撤廃し、職業の自由、交通移転の自由、土地売買の自由、作付けの自由、華士族平民の通婚の自由など相次いでもたらされたが、近代的諸制度を営むためには莫大な費用がかかってきた。その負担は大部分農民の負担にかかってきた
 その不満から一揆、暴動が起こったそれが自由民権運動の発端ともなってきた。

 自由民権運動は、征韓論に敗れて下野した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが、明治七年(1874)明治十年(1877)年一月民選議員設立建白書を提出したことによって、口火を切られた。これは政府の「有司専制」を攻撃し、民選議員の設立を唱えたものでありこれを契機に土佐の立志社をはじめ、各地に地方政社が続々組織され、やがて全国的な統一を成し遂げた。明治八年二月結成された愛国社である。
明治十年ころまでの自由民権運動は主として士族によって指導されていたが、愛国社の大会がいくたびか開かれ国会期成同盟が結成されて、国会開設の要求が高まった。そこで政府は情勢を察知して、明治十四年(1881)十月国会開設の勅令を出し世論を緩和しようとした。これを契機に自由民権派は政党を組織し国会に備え、自由党、改進党が生まれた。
 こうした時代の流れの中で、柴田ハマも新発田の進取社において演説したに違いない。それが、たまたま新潟新聞に掲載されていて、百二十余年のときを経て日の目をみた。
 ハマはこの年の一月から三月の間に結婚しているらしい。ハマ当時(十七歳)である。相手は、新潟県北蒲原郡南濱村字太郎代 番地、吉田義孝(安政四年生まれ)氏とである。 
 吉田家は、史蹟太郎代観音齋藤太郎太を祖とする代々北蒲原郡南濱村の名主吉田家十五代当主吉田義孝氏である。義高は、加治川治水に私財をかけ後に功労賞をうけている。民権運動にも情熱を注ぎ、尾崎行雄とも長年親交があつた。一緒に写された写真も手元に現存する。

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明治十二年一月二十五日   地租改正事務格別勉励に付 為其賞金七
                 拾円下賜候事
明治十二年二月十三日    租税課兼地租改正掛申付候事
同 八月一日        当公地理兼務申付候事
同 十二月二十四日     長官北蒲原郡へ出張に付随 行申付候事

明治十二年         松本九女、田口高朗と結婚 (14歳)
明治十二年         三浦省軒、松本十女と結婚 (13歳)
明治十二年         柴田ハマ、吉田義孝と結婚 (17歳?)
明治十三年二月二日     長官北蒲原郡へ出張に付随行申付候事

明治十三年二月二日     客歳6月新潟町失火の節罹災窮民へ金七
                 円施興候段奇特の事に付褒置候事

明治十三年六月一日     地租改正掛出張所 専務申付候事

明治十三年十一月五日    新潟区失火の節罹災の窮民へ金拾円施興
                 候段奇特の事に付為其賞木杯壱個下賜候
                 事


明治十三年十一月二十八日  南蒲原郡三條町外六ヶ村失火の節罹災の
                 窮民へ金七円施興候段奇特の事に付褒置
                 候事
明治十三年十二月二十六日  年中職務勉励に付為慰労金五拾円下賜候
                 事
明治十四年一月二十七日   調査掛兼務申付候事

明治十四年三月十三日    ハマの長男吉田斌出生
明治十四年七月二十五日   5月1日新潟町失火の節罹災の窮民へ金
                 壱円五拾銭施興候段奇特の事に付褒置候
                 事
    同八月二十四日   地売修正願村々実地踏査大蔵省出張官員
                 為立会出張申付候事


   同十一月二十四日   旧筑摩縣へ出張申付候事

明治十四年十二月十九日    一等屬井上正貞不在に付課 長事務代
理中明治12年8月以降地租改正掛又は租 税中に於て地券用紙其他の物品を窃取然るを数日間覚知せず畢竟平生取締方厳ならざるより致す粛にして職務上不都合の義に付懲戒例により譴責但し西蒲原郡真木山村矢川作平外一人より差出したる地所譲渡の願書証郡役所へ可送付を誤て直に指令案を起草して決行し又は三嶌郡長の伺書に主任に於て誤謬指令案を起したるを調査に失するは軽きを以て論せず

明治十五年二月一日     孝(田口)九女の長女、柴田義之助の妻
                 生まれる。

明治十五年四月六日     地租改正事務勉励に付為其賞目録通下賜
                 候事目録、金八拾円

明治十五年十月六日(1882) 租税課兼地租改正掛申付候事

明治十六年十二月二十八日(1883)國税掛申付候事 

明治十七年七月十五日    國税掛申付候事

明治同十七年八月二日
明治十七年七月十五日(1884)任新潟縣収税属九等官相当
同八月二日          非職申付候事
明治十八年五月十二日(1885)
              旧地租改正掛出張所服務中明治十五年六
                 月より同十五年六月に到る際に於て其所
                 管に係る地券証印税を一個当時御用掛、
                 佐藤三四郎に委し調査霧察を欠き為に金
                 三千五百余円の巨額を扮失するに至れば
                 職務上過失と認むるに付懲戒例に照し罰
                 俸金拾六円六拾六銭に傭す

永山県令に仕えて以来行動を共にして、明治20年に非職
  新潟県県史・別編3(人物編) p776頁 明治十年七月一日
   二等属、六兼地六課地租改正 県令より三番目
        
に記述あり。
県の資料・新潟市歴史文化課(阿部雄生様)より聞く。

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★時空系列は無視してメモ

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年代的に前後するが、ここに孝の実家である、田口家 関係の事象を挿入する。孝は敬恭の長男の嫁であるが、色々と調べていく内に、かなりの末裔と先祖までたどり着いた。

松本家・田口家の人々

 万延四年 荘子巳亥 生まれる 田口九女の義姉、
松本景福、照子の次女、
 ★慶応元年 西丸御台所四 十俵二人扶持 元高三十俵二人持 
中村利三郎
            
   隠居

 ●慶応元年八月六日   田口(松本家長女)九女 生 長女が柴田義之助
 の妻、孝
 ○慶応二年(1866)  三浦(松本家)十女 生
             大正天皇の侍医・
三浦省軒(三浦謹之輔陸軍大
              将の弟
)の妻

 ○慶応二年美濃郡代付属 元締/笠松詰明治二年掛川奉行支配 調役並
  明治三年静岡藩権大属 明治六年退官 東京本郷押上村六十一番地 寄留
  静岡県敷知郡(浜松) 士族  
松本景福(治三郎)文政九年生まれ
                妻・照子(84歳)

 ★慶応元年家督相続本国三河  生国武蔵静岡藩士 勘定下役 
  明治六年静岡鷹匠町
                万屋市蔵方寄留 
中村由五郎

 ◎
明治元年九月二十八日(1824)柴田敬恭長男
                 ※柴田義之助 伊達郡桑折にて生まれる

 ★明治七年工部省鉱山寮大属 明治十年同会計局三等属明治十八年同鉱山局
  鉱山課一等属        ※
田口篤祐(妻 柴田なお)

 ★明治七年 田中(藤枝市)  明治十八年陸軍第三連隊  三等軍医 
  明治二十年 第三旅団副医官 ※
松本三郎
                
                ●

 明治十六年四月四日出生   佐久間安世(孝の妹)田口高朗と九女の次女で
              ある。
               佐久間勝蔵の妻
 明治十七年六月七日    後、旭川第二十六連隊診療班となる
           田口篤忠(孝の弟)田口高 朗と九女の長男である。

             ややこしいので、ここで整理する。
                   松本景福/照子の子は
                 長女 九女(田口孝の母)
                次女 十女(三浦省軒の妻
                長男 三郎
                次男 四郎
                 女 荘司巳亥
                 女 大西 百
                 女 林 千舞
                 女 万舞
                 子は十三人いたそうだが一部不明

                 その松本景福の長女・九女(くめ)と
                 田口高朗が結婚。
                長女 孝(柴田義之助の妻)
                次女 安世(佐久間勝蔵の妻)
                長男 篤忠(小野ふさの夫)
                次男 篤信(美津子の夫)


  明治二十一年一月九日    ハマの次男・吉田正一出生

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◎明治元年九月二十八日に (1824)柴田敬恭長男
 ※柴田義之助生まれて20年が経過。英語学校を主席卒業
  し、その後は東京の海軍経理学校に学んでいる。

平成18年の1月頃、ふと柴田義之助の隣にいる小和田金吉という
小和田姓が気になり調べたところ、皇太子の雅子妃の先祖で有る
ことが判明した。調べた価値は十分あったし、非常に驚いた。



  
明治十七年九月に非職申付太郎代に句碑を建立して三年。
  現 新潟市太郎代1506 太郎代観音金龍庵駐車場右側に自身の句碑建立
 

   老の手乃 杖まて輕し 衣替 
            と、記した自筆の石碑が現存する。

 明治十九年一月       義之助海軍砲科教程

 明治二十年八月二日(1887) 敬恭、非職満期免官
               北蒲原郡南濱村大字太郎代濱
               八十一番地に住んでいた。


柴 田 敬 恭 
明治二十五年68才で生涯を終える。
 
明治25年5月6日没(1892) 68歳

墓所・墓地東京上野谷中、田口家墓地甲2号・7側に柴田氏との墓石有り。(敬恭と琴子と共に刻まれている墓石が1基有り)仏式
新潟県北蒲原郡(現、新潟市)南濱村大字太郎代濱八拾壱番地に於いて逝去。
同墓地には敬恭の妹、田口なお(直)即ち田口篤裕の妻の大きなオベリスク風の墓碑も建つ(神式)(なお・は天保元年十月十七日生まれ〜嘉永四年四月五日没)

 明治維新前付記

房州加知山藩酒井家分家竜島酒井舎人七代目江戸屋敷生れその後の動向資料

    江戸旧幕府代官、川崎平右衛門・天保十三年(1842)転役以前代官 
天保十三年五月二十四日、焼火之間若頭(5-183)
    天保十四年(1843)十二月二十四日御人減(御役廃止)に付寄合(4-108)
    嘉永元年(1843)十二月二十四日勤仕並寄合より元焼火之間番頭
    安政二年(1855)二月十五日卒二之丸留守居に仕える。  
          

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