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戊 辰 戦 争
幕末、幕府内部は、将軍の継嗣問題や開国問題で揺れていた。中でも、開国問題は、
孝明天皇が強硬に反対していたにもかかわらず、天皇の勅許を得ぬままに通商条約に調印してしまったため、朝廷との衝突にまで発展してしまった。その後幕府は、朝廷との融和をはかり、孝明天皇の妹の和宮を十四代将軍家茂の夫人として江戸に迎えたりしたが、この前後から、各藩は、朝廷と幕府を結びつけ政局の安定をはかる“公武合体派”、反幕をスローガンとする“尊王攘夷派(後に尊攘派と呼ばれる)”、そして、幕府を支持する“佐幕派”に分れて、勢力抗争を繰り広げるようになる。
このような情勢の中で、幕府は弱体化していった。慶応2年(1866)12月、徳川慶喜が十五代目の将軍に就任し幕政の再建を試みたが、それも時すでに遅く困難を極めた。しかも慶喜は、長州藩(以前から幕府と対立していた)の処分問題で薩摩藩と衝突し、すでに反幕の態度をあらわにしていた両藩をより強力に結束させてしまったのである。これに対し土佐藩は、公武合体の立場で幕府に大政奉還を勧めていたが、結局、慶喜も幕府再建を諦め、慶応3年(1867)10月、大政奉還を上申したのであった。
自ら大政奉還を行った慶喜ではあるが、その後のクーデターで成立した新政府は慶喜を政治の舞台から完全に排除する態度を見せた。そのため旧幕府方は反発の態度を強め、慶応4年(1868)1月、ついに旧幕府方と新政府方の勢力との間で戦争が勃発した。この抗争は4月の江戸城開城をみ、戦場を東北に移して翌年の5月まで続いた。戦争開始の慶応4年の干支が戊辰(つちのえたつ)であるため、一連の戦争は総称して“戊辰戦争”と呼ばれている。
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「旧幕府天領の地、
信濃飯島陣屋〜伊那県庁」2
江戸幕府天領(御領)の陣屋は、江戸後期には全国に約60ケ所置かれたが、軍事的機能を持たないために城と比べ施設が小規模で、その為建物などで現在まで残っている物は少ない。 飯島町は長野県の南部、伊那谷のほぼ中央に位置し、西に中央アルプス南駒ヶ岳、東に南アルプスも山並みを望むことができる。伊那谷の中央部を天竜川が南流し、下流域の遠江・駿河・三河とは古くから政治・経済・文化の面で盛んな交流がされてきた。
飯島陣屋は延宝五年(1677年)、片桐陣屋(現下伊那郡松川町)から伊那街道の伝馬宿であった飯島町に移されて以来、陣屋や駿府陣屋の出張陣屋として慶応三年(1867)までに実に百九十年間にわたり南信濃を中心とした天領地を支配してきた。この間、41人の代官が在職し、支配地の石高は多い時は五万石以上、少ない時は一万数千石、平均すると三〜四万石であった。陣屋は飯島宿のやや奥まった位置にあり、伊那街道とは陣屋小路と呼ばれる小路で結ばれていた。陣屋は度重なる火災に遭い、そのつど再建され、安政三年(1856)には飯島宿の大火で全焼したが、翌年建てられた。この建物は明治元年(1868)に伊那県庁として引き継がれ、明治四年、伊那県が廃県とかってからは飯島学校の校舎として使用された。明治27年には飯島学校は新敷地へ移り、陣屋に関係した建物は移されたり壊されたりした。
平成二年、飯島町は陣屋。復元整備を行い本陣の復元を開始した。
柴田敬恭は明治4年5月25日大蔵省より伊那県へ出向し、同6月18日から明治6年8月28日まで約2年間、永山盛輝参事と共に飯島伊那県庁で権大属として任じている。
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永山盛輝県令と中野県〜伊那県〜
筑摩県、新潟へ3
「伊那県」
慶応四年(1862)年二月、信州の旧幕府直轄領(飯島・御影・中之条・中野各代官所)、松本藩・松代藩の預所、松本領などが、尾張藩(名古屋)の管轄となった。同四月に府藩県治制が定められ、信州は藩県二治制となっている。尾張藩管轄の旧幕府領関係は、八月に設置された伊那県となり、伊那県庁が伊那郡飯島村〔飯島町〕におかれた。
伊那県は愛知の一部、足助局と信州各地の南北に点々とし、出張所が御影・中之条・中野などにあって、その支配は難しく、しかも領域は信州全体の10分の1にすぎなかった。
「中野県」
明治三年九月 伊那県のうち東北信地方を孤立させて中野県とし、県庁を高
井郡中野村(現中野市)に置く。
明治三年九月に成立、後三ヶ月にして、中野騒動が発生し民
衆の力を示した。県庁を焼かれた中野県はわずか10ヶ月にし
て終わり、同四年六月、長野県に県庁が移され長野県と改称
される。
同四年七月十四日、廃藩置県が行われた。
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「柴田敬恭 大蔵省当時明治期の履歴」
1870 明治三年十月十八日、 大蔵省租税小令史に任命された敬恭は、
明治四年正月に信濃国暴動事件後、諸帳
簿調方として中野県 へ出張申付。
明治四年五月二十五日、 敬恭大蔵省より伊那県へ出向申付。
同四年六月十八日 伊那県権大属申付。
同年六月十八日 租税掛申付。
●廃藩置県●
「筑摩県」(元松本市)
明治四年十一月二十日、 伊那県廃せられ筑摩県を置く。満年賜金
不受。
同年十二月二十二日 筑摩県十一等出任申付。
明治六年一月二十九日、 筑摩県・任大属。
明治六年六月十九日 筑摩県庁焼失。即日開智学校内に県庁を
移す
明治六年七月十五日 ・敬恭の長女の柴田ハマ、筑摩県
(長野県松本市)
開智学校に女学校が開設され本町生安寺
に仮校舎を女学校とする。
(明治五年設置〜明治十年統合)に後の
鳩山(多賀)春子と共に同じクラスで学
ぶ。後になっても交遊が続いた
(二人が並んだ写真があり)
[我が自叙伝]鳩山春子著。多賀春子の
家は、旧松本藩の士族であった。(略)
明治六年八月 官等御改正に付左の通り拝命
明治六年八月二十八日 筑摩県・任中属
同年同日 上等月給下賜
同十月二日 筑摩県師範講習所を開智学校に開設
「筑摩県」
筑摩県(永山盛輝前、伊那県大参事、旧鹿児島藩士)明治政府の基盤となった地租改正は、筑摩県が極めて先進性を示し、山口県についで明治五年十一月に着手し、翌明治六年七月には、全国に先駆けて農民の取り分の多い地価算定式を決めた。柴田敬恭は、知事・永山盛輝の地租改正の直属吏として仕える。
明治八年十月十二日 本年四月二十四日飛騨国大野郡高山町非
常の火災にて失火焼亡する戸数千三十三
戸に及び人民夫れ食うに苦しむを憐れみ
金壱拾円為救助差し出す段奇特の義に付
為其の賞木盃一個下賜候事。
明治九年一月七日 敬恭 任筑摩県権大属
「新潟県へ赴く」
同明治九年一月七日 新潟県出向申付候
明治九年二月十二日 任新潟県権大属
同年同日 第三課中地租改正掛申付候
明治九年四月七日 新管内地租改正事務為取調出張申付候事
明治九年六月十九日、松本の筑摩県庁が焼失し、それをきっかけに長野県に統合される。
この間、永山盛輝大参事に呼応するように柴田敬恭は、収税・地租改正と官吏の道を新潟県まで、共に歩んでいる。
明治九年九月二十六日 第十二・十三・十四区の内 改租の成否
為査閲、小千谷町へ出張申付候事
明治十年一月二十二日 府県参事(県知事)以下廃せられ候に付
解官
明治十年一月二十七日 任新潟県二等属
同年同日 第六課長兼地租改正掛申付 候事
明治十年一月二十七日 越後西半国改租整頓に付為 伺上京申付
候事
明治十年十月 旧筑摩県奉職中、学資及び道路修繕費等
へ金参拾八円六拾八銭六厘差出候段奇特
の義に付内務省へ及び上申
為其賞木盃一個下賜候事
明治期の柴田敬恭一家
調べの逸話
2001年9月、かねて事前に資料をFAXで頂いていた長野・松本市にある開智学校に次男、私、6男夫婦で出掛けた。梶の葉が神紋である諏訪大社に関連を求めて行ったのだが、朝早すぎ聞く人もおらず、散策後下諏訪大社へ廻り、一路松本へ。
松本城見学後、開智学校へ、アポなしのため関係者は土曜日で休み。重たい資料をぶらさげ見学。2階にあるガラスケース内古文書に柴田敬恭の名前発見。一同「あった、あった。」が記憶に残る
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筑摩県(現・長野県) 4
松本市立博物館付属機関重要文化財旧開智学校 管理事務所
お世話になって、資料を送って頂いた○○さまは、2006年
5月に再度開智学校を訪れたが、同年3月にご勇退されていた
〒390-0876 松本市開智二丁目四番十二号
* 明治5年の官員名簿が開智学校に有り
* 明治7年の官員名簿有り
筑摩県の教育と民権に対する土壌
信州松本は、坂崎斌、松沢求策らの活躍によって民権運動も早くから盛んであつた土地だけに、演壇演説会があちらこちらでしきりにひらかれた。その会場のひとつの宝永寺の近くに、そのころ小学生の木下尚江(1869〜1937)の家があった。そこで演説会があるたびに、こども・婦人がおもしろがって手を打つ。弁士は大半小学校の若い教員だった。
一・国会を開設して、人民がみな政治に参与せねばならぬ事。
二・条約を改正して、外国人もみな日本の法律に従うようにせねばならぬこと。
言論を武器とする民権運動は新聞と演説を両輪とした。
演説の流行にたじたじとなった政府は1880年(明治13年)四月、集会条例を出して弾圧にかかった。そんな時代の前に、明治六年柴田ハマは松本開智学校女子部で学んだ。前年五年(1872)は「学制」頒布で義務教育制度ができたばかり「学制」はおもにフランスの教育制度を範とした。制度はかわっても寺子屋の延長のところもあり当時の学級編成は、半年を一級とし、下等が八級から一級まで、上等が又八級から一級まで併せて16学級のものを一室に収容したものだったらしい。生徒のなかの上級生優秀者が、授業生という名目で指導の手助けをしたので、先生は一人で間に合ったらしい。授業生とはいまでいう代用教員のことである。小学校課程を修了した柴田ハマもその一人であった。
当時永山盛輝は教育に力を注ぎ教育県令といわれ学制発布後全国一の就学率であった。その時期の柴田ハマの動向
明治六年当時、ハマと同じクラスには多賀(鳩山)春子がいた。生安寺は6年生女子、男子は全久院と共学ではなかった。(明治5年設置〜明治10年統合)開智学校は明治九年に完成している。春子は明治6年末迄いたがその後、上京、明治10年に東京の竹橋の女子師範に入学。ハマは明治9年1月7日、敬恭が新潟に赴任したため、同時期に新潟に移る。
▼年月不明 但しハマ本人は、14歳の時と語っていた。
単独徒歩で、家を出て上京。碓氷峠にさしかかった時は涙が流れ、戻ろうかと思ったと。然し東京での勉学の意志強く、東京へ向かった。(同級生だったタガハルコ、後の鳩山春子)女史が上京し竹橋女学校〜女子師範への道を選んだことの影響、決意になったと。)
東京につき本郷菊坂の交番で尋ねる先生(女子師範の教師・藤田東湖〔元水戸藩〕の姪)の家を案内してもらう。
先生(名前? )身元を確かめた上、学習・家事手伝いで住込み許される。
▼年月不明
神田ニコライ堂に通ううち、信仰心を持ち女子師範へ入学せず官費生となって、ニコライ堂ヘ入り、研修。後、成績優秀でロシアへの官費留学を奨められる。▼明治十年頃の話しである 実家の父へその経緯をつたえる。日ならずして、「父危篤」の電報を受け取り帰郷。電報は呼びもどすための口実。敬恭は危篤どころか形相を変え、刀を携え座敷の真ん中に座し、おまえが毛頭露国へ行くのは許さぬ。もし行くのならばおまえを切って、俺も腹を切る、と猛反対をした。
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自由民権運動
柴田ハマ、女性史覆す弁士、新発田演説会で演説・「艱難は樂を得るの機」
ハマとは言うまでもなく、敬恭の長女で柴田義之助の姉である。
1880 明治13年3月6日 はま、新発田演説会で演説!!最初の女
性弁士。
「艱難は樂を得るの機」
新聞に記載され最古記事として証明された日本で最初の女性弁士、柴田ハマ
明治13年3月11日 新潟新聞に記事掲載以下記事「新発田演説会に女性も演説」
○北蒲原郡新発田演説會は去る六日午後六時より進取社に於て開きました演説會者ハ 三堀兵五郎(新発田人に謀るの緒言)山口和朝(倒れぬ先の杖)早津安吉(天地奇 怪なし)吉田(柴田)はま(艱難ハ樂を得るの機)
山形佐一郎(演説の功用)大村一(富の説)吉田義高(勉強は開化の母)和氣清太郎(國會論)にして傍聴人は凡そ三百人程あり演説者ハ皆堂々として壇上に登り雄弁を揮はれたりとの事
※1999年十月新潟女性史クラブ
鈴木由美子様より(新聞カード検索コピー1989)
※新潟女性史年表A判500頁の本ができた。自由民権運動と男女同権論/演壇に立つ女たちの項目の中に登場予定。新潟にとって誇らしい記述をすることができます。なぜなら今まで、女性史の通説では日本で初めて演説したのは京都の「岸田俊子」で、明治15年ころということだったからです。つまり日本初の女性弁士が「柴田はま」さんになるというわけです。
※偶然というべきか、驚くことに120年も前のハマのことを、別の人が捜していたのである。新潟の太郎代の金龍庵の住職さんにお送りしていた、私の資料を見て連絡が逆辿りに来た。なにか因縁というか引き合わせに仰天した。
これで解らなかったハマさんのことが、一気に加速してわかってきた。
ハマの養女である作田さんにもお世話になり、色々お聞きして、何回となくこちらの資料を新潟の鈴木由美子さんにFAXでお送りした。所在が解り記事ができて大喜びは三者共々であった。
その間は、私たちは何度も確認を取り合い、FAXなどで情報を提供しあった。
鈴木由美子様は、取材のために新潟から、東京まで足を運んだりして尽力を
おしまずにしてくれていた。
明治13年ころといえば自由民権の旋風が日本を覆っていた。
新潟新聞と尾崎行雄 (萼堂)
福沢諭吉は、新聞界においても優れたリーダーであった。その門下生のひとりの尾崎行雄(1858〜1954)は、西南戦争後まもなく「公開演説法}を反訳するなど、眼はしのきく秀才だったが、そのころろのある日、福沢先生をたずねて意見をたたいた。
「その時先生は毛抜きで鼻毛を抜きながら、へんな目つきをしてななめに私の顔尾を見ながら、『おミェーさんは、だれに読ませるつもりで著述なんかするのかい。』と問われた。私は其の態度や言葉使いにムッとしたが、怒気をおさえ、襟を正し、厳然として、『大方の識者に見せるため。』と答えた。スルト先生は、『馬鹿ものめ!猿に見せるつもりで書け。おれなどはいつも猿に見せるつもりで書いているが、世の中はそれで丁度いいのだ。』と叱咤しつつ人を引きつけるような笑い方をされた。
私は叱られたのか、ほめられたのか、なんだかわからなかったが、とにかくその態度や言葉使いが気に入らなかったから、その後はなるべく先生を訪問しないようにした。しかし、これは私の誤りで、先生は実用的著述の極意を示されたのであった。」
(尾崎行雄『萼堂自伝』) 1947
1879年の冬のある日、福沢先生の呼び出しを受けて尾崎が飛んでいくと、新潟新聞の主筆にならぬかという耳よりな話だ。「当時新潟新聞は地方新聞の尢として大阪の大新聞と対抗するほどの勢力をもっていたから」尾崎は快諾して、弱冠二十一歳の主筆が生まれた。
「私が越後に行ったころの新聞は論説に重きをおいていたから、論説記者の勢力は、大層なもので、その主任は主筆と称し、編集全体を指揮した。私ももちろんそうであったが、しかし主筆だけで満足せず、はじめから新潟新聞総理と署名しさらに指揮権を営業方面にまで拡張し、株主代表者たる社長を更迭せしめたこともあった。」
(尾崎行雄)『萼堂自伝』
尾崎行雄の気負いはオーバーにせよ、当時の新聞主筆の権威たるや、推して知るべしである。当時の新聞は大新聞と小新聞と、毛色の違いでかっきり二分されていた。「大方の識者」と猿「庶民」向けの読み物新聞である。
開港貿易による尊攘運動の激化を契機として成立した明治維新政府は封建的諸制度を撤廃し、職業の自由、交通移転の自由、土地売買の自由、作付けの自由、華士族平民の通婚の自由など相次いでもたらされたが、近代的諸制度を営むためには莫大な費用がかかってきた。その負担は大部分農民の負担にかかってきた
その不満から一揆、暴動が起こったそれが自由民権運動の発端ともなってきた。
自由民権運動は、征韓論に敗れて下野した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが、明治七年(1874)明治十年(1877)年一月民選議員設立建白書を提出したことによって、口火を切られた。これは政府の「有司専制」を攻撃し、民選議員の設立を唱えたものでありこれを契機に土佐の立志社をはじめ、各地に地方政社が続々組織され、やがて全国的な統一を成し遂げた。明治八年二月結成された愛国社である。
明治十年ころまでの自由民権運動は主として士族によって指導されていたが、愛国社の大会がいくたびか開かれ国会期成同盟が結成されて、国会開設の要求が高まった。そこで政府は情勢を察知して、明治十四年(1881)十月国会開設の勅令を出し世論を緩和しようとした。これを契機に自由民権派は政党を組織し国会に備え、自由党、改進党が生まれた。
こうした時代の流れの中で、柴田ハマも新発田の進取社において演説したに違いない。それが、たまたま新潟新聞に掲載されていて、百二十余年のときを経て日の目をみた。
ハマはこの年の一月から三月の間に結婚しているらしい。ハマ当時(十七歳)である。相手は、新潟県北蒲原郡南濱村字太郎代 番地、吉田義孝(安政四年生まれ)氏とである。
吉田家は、史蹟太郎代観音齋藤太郎太を祖とする代々北蒲原郡南濱村の名主吉田家十五代当主吉田義孝氏である。義高は、加治川治水に私財をかけ後に功労賞をうけている。民権運動にも情熱を注ぎ、尾崎行雄とも長年親交があつた。一緒に写された写真も手元に現存する。
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明治十二年一月二十五日 地租改正事務格別勉励に付 為其賞金七
拾円下賜候事
明治十二年二月十三日 租税課兼地租改正掛申付候事
同 八月一日 当公地理兼務申付候事
同 十二月二十四日 長官北蒲原郡へ出張に付随 行申付候事
明治十二年 松本九女、田口高朗と結婚 (14歳)
明治十二年 三浦省軒、松本十女と結婚 (13歳)
明治十二年 柴田ハマ、吉田義孝と結婚 (17歳?)
明治十三年二月二日 長官北蒲原郡へ出張に付随行申付候事
明治十三年二月二日 客歳6月新潟町失火の節罹災窮民へ金七
円施興候段奇特の事に付褒置候事
明治十三年六月一日 地租改正掛出張所 専務申付候事
明治十三年十一月五日 新潟区失火の節罹災の窮民へ金拾円施興
候段奇特の事に付為其賞木杯壱個下賜候
事
明治十三年十一月二十八日 南蒲原郡三條町外六ヶ村失火の節罹災の
窮民へ金七円施興候段奇特の事に付褒置
候事
明治十三年十二月二十六日 年中職務勉励に付為慰労金五拾円下賜候
事
明治十四年一月二十七日 調査掛兼務申付候事
明治十四年三月十三日 ハマの長男吉田斌出生
明治十四年七月二十五日 5月1日新潟町失火の節罹災の窮民へ金
壱円五拾銭施興候段奇特の事に付褒置候
事
同八月二十四日 地売修正願村々実地踏査大蔵省出張官員
為立会出張申付候事
同十一月二十四日 旧筑摩縣へ出張申付候事
明治十四年十二月十九日 一等屬井上正貞不在に付課 長事務代
理中明治12年8月以降地租改正掛又は租 税中に於て地券用紙其他の物品を窃取然るを数日間覚知せず畢竟平生取締方厳ならざるより致す粛にして職務上不都合の義に付懲戒例により譴責但し西蒲原郡真木山村矢川作平外一人より差出したる地所譲渡の願書証郡役所へ可送付を誤て直に指令案を起草して決行し又は三嶌郡長の伺書に主任に於て誤謬指令案を起したるを調査に失するは軽きを以て論せず
明治十五年二月一日 孝(田口)九女の長女、柴田義之助の妻
生まれる。
明治十五年四月六日 地租改正事務勉励に付為其賞目録通下賜
候事目録、金八拾円
明治十五年十月六日(1882) 租税課兼地租改正掛申付候事
明治十六年十二月二十八日(1883)國税掛申付候事
明治十七年七月十五日 國税掛申付候事
明治同十七年八月二日
明治十七年七月十五日(1884)任新潟縣収税属九等官相当
同八月二日 非職申付候事
明治十八年五月十二日(1885)
旧地租改正掛出張所服務中明治十五年六
月より同十五年六月に到る際に於て其所
管に係る地券証印税を一個当時御用掛、
佐藤三四郎に委し調査霧察を欠き為に金
三千五百余円の巨額を扮失するに至れば
職務上過失と認むるに付懲戒例に照し罰
俸金拾六円六拾六銭に傭す
永山県令に仕えて以来行動を共にして、明治20年に非職
新潟県県史・別編3(人物編) p776頁 明治十年七月一日
二等属、六兼地六課地租改正 県令より三番目
に記述あり。
県の資料・新潟市歴史文化課(阿部雄生様)より聞く。
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★時空系列は無視してメモ
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年代的に前後するが、ここに孝の実家である、田口家 関係の事象を挿入する。孝は敬恭の長男の嫁であるが、色々と調べていく内に、かなりの末裔と先祖までたどり着いた。
松本家・田口家の人々
万延四年 荘子巳亥 生まれる 田口九女の義姉、松本景福、照子の次女、
★慶応元年 西丸御台所四 十俵二人扶持 元高三十俵二人持 中村利三郎
隠居
●慶応元年八月六日 田口(松本家長女)九女 生 長女が柴田義之助
の妻、孝
○慶応二年(1866) 三浦(松本家)十女 生
大正天皇の侍医・三浦省軒(三浦謹之輔陸軍大
将の弟)の妻
○慶応二年美濃郡代付属 元締/笠松詰明治二年掛川奉行支配 調役並
明治三年静岡藩権大属 明治六年退官 東京本郷押上村六十一番地 寄留
静岡県敷知郡(浜松) 士族 松本景福(治三郎)文政九年生まれ
妻・照子(84歳)
★慶応元年家督相続本国三河 生国武蔵静岡藩士 勘定下役
明治六年静岡鷹匠町
万屋市蔵方寄留 中村由五郎
◎明治元年九月二十八日(1824)柴田敬恭長男
※柴田義之助 伊達郡桑折にて生まれる
★明治七年工部省鉱山寮大属 明治十年同会計局三等属明治十八年同鉱山局
鉱山課一等属 ※田口篤祐(妻 柴田なお)
★明治七年 田中(藤枝市) 明治十八年陸軍第三連隊 三等軍医
明治二十年 第三旅団副医官 ※松本三郎
●
明治十六年四月四日出生 佐久間安世(孝の妹)田口高朗と九女の次女で
ある。
佐久間勝蔵の妻
明治十七年六月七日 後、旭川第二十六連隊診療班となる
田口篤忠(孝の弟)田口高 朗と九女の長男である。
ややこしいので、ここで整理する。
松本景福/照子の子は
長女 九女(田口孝の母)
次女 十女(三浦省軒の妻
長男 三郎
次男 四郎
女 荘司巳亥
女 大西 百
女 林 千舞
女 万舞
子は十三人いたそうだが一部不明
その松本景福の長女・九女(くめ)と
田口高朗が結婚。
長女 孝(柴田義之助の妻)
次女 安世(佐久間勝蔵の妻)
長男 篤忠(小野ふさの夫)
次男 篤信(美津子の夫)
明治二十一年一月九日 ハマの次男・吉田正一出生
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◎明治元年九月二十八日に (1824)柴田敬恭長男
※柴田義之助生まれて20年が経過。英語学校を主席卒業
し、その後は東京の海軍経理学校に学んでいる。
平成18年の1月頃、ふと柴田義之助の隣にいる小和田金吉という
小和田姓が気になり調べたところ、皇太子の雅子妃の先祖で有る
ことが判明した。調べた価値は十分あったし、非常に驚いた。
明治十七年九月に非職申付太郎代に句碑を建立して三年。
現 新潟市太郎代1506 太郎代観音金龍庵駐車場右側に自身の句碑建立
老の手乃 杖まて輕し 衣替
と、記した自筆の石碑が現存する。
明治十九年一月 義之助海軍砲科教程
明治二十年八月二日(1887) 敬恭、非職満期免官
北蒲原郡南濱村大字太郎代濱
八十一番地に住んでいた。
柴 田 敬 恭 没
明治二十五年68才で生涯を終える。
明治25年5月6日没(1892) 68歳
墓所・墓地東京上野谷中、田口家墓地甲2号・7側に柴田氏との墓石有り。(敬恭と琴子と共に刻まれている墓石が1基有り)仏式
新潟県北蒲原郡(現、新潟市)南濱村大字太郎代濱八拾壱番地に於いて逝去。
同墓地には敬恭の妹、田口なお(直)即ち田口篤裕の妻の大きなオベリスク風の墓碑も建つ(神式)(なお・は天保元年十月十七日生まれ〜嘉永四年四月五日没)
明治維新前付記
房州加知山藩酒井家分家竜島酒井舎人七代目江戸屋敷生れその後の動向資料
江戸旧幕府代官、川崎平右衛門・天保十三年(1842)転役以前代官
天保十三年五月二十四日、焼火之間若頭(5-183)
天保十四年(1843)十二月二十四日御人減(御役廃止)に付寄合(4-108)
嘉永元年(1843)十二月二十四日勤仕並寄合より元焼火之間番頭
安政二年(1855)二月十五日卒二之丸留守居に仕える。
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< ●我が柴田家調べ● 家紋は下がり藤に立ち梶の葉です>
●関連記事●
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- ハマの弟、柴田義之助の履歴
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